平成17年9月17日開催!東京龍馬会・ソニー坂本龍馬研究会 合同研究発表会

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‘05.09.17@横浜市開港記念会館

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最初にスペシャルゲストの土居先生のスピーチをいただいたあと、一番手は、東京龍馬会の渡邉幹事。勝海舟の日記を全編調べて、龍馬がいつごろ、どんなことで海舟の日記に登場するのかを綿密に調査した、力のこもる報告でした。
龍馬が初めて海舟の日記に登場するのは文久2年の大晦日。以後飛び飛びに書かれているものの、2年後の元治元年8月での記述を最後に龍馬の消息は途切れ、あとはいきなり慶應3年12月に後から聞いた話として龍馬の死が書かれているだけ。計16回にわたるものだということです。日記の内容を深く読み込んでいくと、これからも興味深いことがわかりそうな、先が楽しみな研究でした。

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次は、ソニーから池田裕明氏の「時代を創った人々の言葉」。ソニーの創業者・井深大氏と盛田昭夫氏の言葉と、龍馬の言葉を比較することによって、激動期の人間の生き方のようなものがわかるのでは?という趣旨の発表でした。ソニーの関係者ならではの視点です。
人間観、死生観、リーダーシップ…どれをとってみても、彼らのあいだで驚くほどの共通点があることが示され、あらためて変革者の精神というものは、時代が多少ずれようが根本はそう変わらないものなのだと改めて思わされました。

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三番手には、東京龍馬会から菊池幹事。今年、亀山社中誕生140周年ということで、少し「商売」というものに焦点をあてて幕末史を見てみよう、という趣旨でした。
龍馬も含めた亀山社中の人々は、当時海軍力を増強したかった薩摩藩のお預かり浪士の身分で、もっぱら薩摩藩の物資輸送に従事していたのを、慶應3年7月に今でいう「株式会社」に近い形で「土佐海援隊」に移行していくわけですが、実は彼らよりもさらに先見の明があったのが小栗上野介であったという話。日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立したのは同年4月のことでした。

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そして、ラストを締めくくるのはソニーの古居素直氏の「龍馬のキャラクターイメージに関する研究」。全国の龍馬ファンは、いったいどんなイメージを龍馬に持っているのか探るため、ウェブ上でアンケートを募り、アメリカの性格分析法を駆使して結果を分析した、本格的なものでした。
結果は、予想通り(?)かなりのばらつきがあり、特に偏りはみられなかったというものでした。これは、アンケートに応じた龍馬ファンそれぞれが「なりたい自分」のようなものを持っており、それを龍馬のイメージに求めているからではないかというお話を伺いました。

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さすがはIT産業の雄だけあって、そのプレゼンテーションの素晴らしさに感服。歴史研究の場でも、こういった先端機器を駆使していけば、どんなに面白く研究を聞けるか…ソニーの方々のいっそうの取り組みを期待したいところです。
それと、皆川幹事の手際の良さで、おやつに味わった「幕末あんぱん」。どちらかというとパン生地よりは、丁寧に作られたアンコのおいしさがお腹に沁みました。
発表会のあとは、横浜中華街に移動して懇親会。おいしい中華料理に舌鼓を打ち、お酒を片手に語ればもうお友達♪
次の再会を約束して、夜空を見上げれば美しい中秋の名月。
ソニー坂本龍馬研究会の皆様、そして東京龍馬会幹事の皆様、すばらしい出会いをありがとうございました。今回は参加を見送られた方も、次回はぜひおいでください。

レポート:柳澤京子

sony-ryoma-06横浜市開港記念会館

sony-ryoma-07土居晴夫先生

sony-ryoma-08懇親会

平成17年7月30日開催!日野新選組同好会と東京龍馬会の交流イベント

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「龍馬、危機一髪!-寺田屋遭難事件顛末-」阿納裕次郎氏(東京龍馬会代表幹事) ‘05.07.30

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7月30日(土)東京龍馬会交流の一環として「日野新撰組同好会」と「日野よさこい祭り」に参加しました。

 7月30日(土)、日野新選組同好会の7月例会にて、東京龍馬会の阿納裕次郎代表幹事が講演をおこないました。
日野新選組同好会さんからは、NPO京都龍馬会の赤尾理事長を通じて、今年5月8日開催の第8回「ひの新選組まつり」においてメインイベントとなる新選組パレードで、龍馬役となってパレードに参加する大役のお話を打診され、東京龍馬会の和田一浩さんが、一日龍馬になりきってパレードに参加した経緯があり、今回の交流イベントに至りました。

2005年7月30日(土)

7月30日(土)「日野新撰組同好会」との交流の一環として、幹事有志と「日野よさこい祭り」に参加しました。参加者7名(阿納・菊池・和田・寺石・松野・南雲・斎藤)
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全員がステージに上り、東京龍馬会の紹介をして戴き、阿納代表幹事が挨拶を述べました。

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その後市民会館3階会議室に移り、15時30分から阿納代表幹事の講演が始りました。
テーマは「龍馬危機一髪・寺田屋遭難事件の顛末」と題して、龍馬タイムズや持参した資料、更に模造刀迄持込んでの中身の濃い内容に皆、真剣に聴き入っていました。
最後は、昼食を摂った局長峯岸氏の店、池田屋で「日野新撰組同好会」と「東京龍馬会」の懇親会で、幕末談義に尽きぬ時間を惜しみつゝ、本日の交流会の終演となりました。
今回は小林正直会員に最初から最後迄お付合い戴き、大変御世話になり有難う御座居ました。
レポート:斎藤嘉嗣

平成17年5月29日開催!東京龍馬会 第37回史跡探訪:「天気晴朗なれども波高し」

当会は来年11月をもって発足20周年を迎え ます。皆さんは覚えていますか?以前会長が、当会発足の起因について『三笠記念艦』内に飾られていた『龍馬』の写真にあったと話していたのを。なぜ、旧海 軍の軍艦内に写真が展示されているのか、この疑問が「東京龍馬会」誕生のきっかけになったのです。
今年は日露戦争の「日本海海戦」100周年にあたり、『お龍さん』の没後100回忌です。最後に私事ですが、20年前『三笠記念艦』を訪ねた時は休憩室内に『龍馬』の写真が展示されていました。しかし、今はありません。


2005年5月29日(日)

JR『横須賀駅』(集合地)⇒『臨海公園』(ヴェルニー記念艦、ヴェルニー胸像、小栗上野介忠順胸像、旧逸見門衛所跡、海軍碑、軍艦碑)⇒『三笠公 園』(東郷平八郎立像、記念艦『三笠』)【お昼】⇒京急「横須賀中央駅」⇒京急「大津駅」⇒『信楽寺』境内(坂本龍子墓)⇒京急「大津駅」(解散地)
*記念館は駅のすぐ側、公園内の所用時間は徒歩約20分。臨海公園から三笠公園までは徒歩約15分*
*三笠公園から横須賀中央駅までは徒歩約12分*

近代海軍の興亡

今から150年前の安政2年(1858年)10月24日、長崎に海軍伝習所が開所しました。さらに10年後の慶応元年(1865年)閏5月、『坂本龍馬』により「社中」が設立されます。今年は「亀山社中」誕生140周年でもあります。
さて、同年9月、幕臣『小栗上野介』の献策で「横須賀製鉄所」が起工されて後に「横須賀海軍工廠」へと拡張整備されました。
100年前の明治38年(1905年)5月27日、「日本海海戦」において日本の「連合艦隊」がロシアの「バルチック艦隊」を破り圧倒的な勝利をおさめま した。しかし、後の大東亜戦争では膨大な物資や船舶を失い、60年前の昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎え、日本海軍はGHQ(連合国軍総司 令部)の命令により解体されました。


横須賀製鉄所建設のこと

『ヴェルニー』(記念艦と胸像)
小栗上野介胸像

フ ランス軍技術将校『フランソワ・レオンス・ヴェルニー』は、1837年12月2日生まれ、フランス公使『レオン・ロッシュ』の紹介により「清国」から招か れた時は28歳でした。来日後「横須賀製鉄所」建設委員になり建設予定地の測量や造船機械に購入、フランス人職工団の人選、造船学校創立等に活躍します。
慶応元年(1865年)の9月27日、4年計画で「横須賀製鉄所」は起工されました。敷地の9万坪内に3箇所の造船所と2箇所のドッグの建設がされ、明治 4年(1871年)にほぼ完成します。その間『ヴェルニー』は所長に就任し、明治9年(1876年)3月13日に帰国します。


『小栗上野介忠順』(胸像)

小栗上野介胸像
『小 栗又一忠順』は文政10年(1827年)2月12日、神田駿河台で生まれました。欧米の海軍工廠を見聞し、かつロシア軍艦の無法に対処できなかった事で日 本が自力で海軍を創ることが急務と考え「洋式造船所」建設を幕府に建議、江戸湾を視察して測量を重ねた結果「横須賀」を選びました。
「横須賀製鉄所」は慶応元年(1865年)9月27日に起工、建設費は1年間に60万ドル、4年間で合計240万ドルをフランスに支払う約束でした。その ほか造船学校併設、職務分掌、奨励給制度導入、残業手当、洋式簿記の導入など近代的なマネージメントが採用されました。
慶応4年(1868年)閏4月5日、東山道総督府の命令で捕縛され、翌6日に何の取り調べもなく「鳥川」河原で斬首されました。享年42歳。跡地には「偉 人 小栗上野介 罪無くして此所に斬られる」と記した碑文が立っています。なお、この胸像は『朝倉文夫』作で大正11年(1922年)9月27日に除幕式 がありました。

日本海軍のこと

今から111年前 – 日清戦争

明治27年(1894年)8月1日~明治28年(1895年)4月17日

総理大臣『伊藤博文』(長州)/海軍大臣『西郷従道』(薩摩)/外務大臣『睦奥宗光』(紀州、海援隊)/朝鮮駐在公使『大鳥圭介』(旧幕臣)/軍令部長『樺山資紀』(薩摩)/連合艦隊司令長官『伊東祐亨(すけゆき)』(薩摩、神戸海軍操練所)

今から101年前 – 日露戦争

明治37年(1904年)2月10日~明治38年(1905年)8月29日

総理大臣『桂太郎』(長州)/海軍大臣『山本権兵衛』(薩摩)/陸軍大臣『寺内正毅』(長州)/外務大臣『小村寿太郎』(飫肥)/軍令部長『伊東祐 亨』(薩摩)/参謀総長『山県有朋』(長州)/連合艦隊司令長官『東郷平八郎』(薩摩)/満州軍総司令官『大山巌』(薩摩)


東郷平八郎(銅像)

弘化4年(1847年)~昭和9年(1934年)、鹿児島の下鍛冶屋町に生まれる。戊辰戦争では軍艦「春日」の士官として「宮古湾海戦」「函館海戦」を経験する。

日清戦争では「豊島沖海戦」・「黄海海戦」に参加、「清国兵」を乗船させた英国船籍の「高陞(カオシン)号」撃沈事件では国際問題になるも「戦時国公法」での正しい処置と認められた。

明治36年(1903年)12月28日、「連合艦隊司令長官」となる。「参謀長」には『加藤友三郎』、「主席参謀」には『秋山真之』らスタッフがいた。

明治38年(1905年)5月27日、ロシアの「バロチック艦隊」を迎撃するため朝鮮半島南部の「鎮海湾」から出撃して対馬沖にてこれを捕捉、北上する敵 艦隊の頭を押える形で(T字戦法)砲撃戦を展開し敵戦艦6隻を撃沈、「ウラジオストック」に入港できたのは3隻のみで「バロチック艦隊」は壊滅した。

この海戦後、「ロシア」が対日戦争継続を断念したとも伝えられ「日本」は明治維新以来40年弱で欧米列強にひけをとらない海軍国になったのである。

しかし、これ以降『米国・英国』との関係が悪化し軍縮会議では艦船建造比率をめぐり対立した。晩年の『東郷平八郎』は軍縮反対の対英米強硬派に利用されて軍縮賛成派の粛正に加担し大東亜戦争への先導役を果たしてしまった。享年87歳。

坂本龍子

坂本龍子墓
青蓮院宮侍医で勤王家『楢崎将作』の長女。天保12年(1841年)生まれ。龍馬の死後、高知の坂本家を頼るが、姉『乙女』とあわず約1年半で坂本家から去る。
明治3年(1870年)、上京して元海援隊士『中島信行』や薩摩藩の『西郷隆盛』、元陸援隊士『香川敬三』らの元を転々として、最終的には妹『光枝』の嫁ぎ先である「横須賀」に落ち着く。
明治8年(1875年)、近江八幡出身の大道芸人『西村松兵衛』と神奈川宿の茶屋で知り合い入籍。「私は龍馬の妻だった」というのが口癖で、常に坂本家の 紋のついた羽織を着ていたという。また、『千葉佐那子』にライバル意識があったのか「聞書反魂香」や「千里駒後日譚」で悪口らしきことものべている。日頃 からの大酒が原因で明治39年(1906年)1月15日、脳溢血で亡くなる。享年66歳。