平成13年7月15日開催!東京龍馬会 第29回:史跡探訪「幕末明治の染井路(みち)」

2001年5月27日

JR巣鴨駅⇒徳川慶喜巣鴨屋敷跡碑日本刀装具美術館⇒地蔵通り商店街(御昼)⇒染井霊園⇒勝林寺⇒本妙寺妙行寺⇒盛雲寺⇒千川上水堰の碑「近藤勇・土方歳三の墓碑」⇒JR板橋駅

「徳川慶喜」巣鴨屋敷跡

「徳川慶喜」巣鴨屋敷跡

明治30年(1897年)徳川慶喜が静岡から28年ぶりに帰京して巣鴨に居を構えた。

 

日本刀装具美術館

日本刀装具美術館

「刀装及び刀装具の研究による成果を展示し、その正しい知識を広く普及して、社会文化の発展に寄与することを目的として設立」(パンフレットより抜粋)された美術館です。
〒113-0021?東京都文京区本駒込6-6-11
TEL:03-5976-6800

 

相良竜介氏と田村東京龍馬会会長

相良竜介氏と田村東京龍馬会会長(昼食時)

次回の講演会で講師を引き受けて下さった相良竜介氏も参加していただきました。

 

福岡孝弟の墓

福岡孝弟の墓(染井霊園)

土佐藩士。天保6年(1835年)生まれ。吉田東洋の門下生で「新おこぜ組」の一人。慶応3年(1867年)2月、龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪の赦免を決定 させ、翌月には後藤象二郎と長崎で土佐海援隊設立に尽力した。また薩土盟約や、山内容堂の命を受け大政奉還実現のため京都・長崎で活動し、龍馬の信頼も厚 かった。維新後は五箇条の御誓文起草に参加。明治8年(1875年)元老院議官、参議県文部卿を経て枢密院顧問官となる。子爵。大正8年(1919 年)85歳。

 

千葉周作の墓

千葉周作の墓(本妙寺)

寛政6年(1794年)陸奥国で生まれる。幼少から兄弟で父祖伝来の北辰夢想流を父から学ぶ。下総松戸宿に移り中西一刀流の免許皆伝を許された後、2流を 合わせ自ら創意工夫した「北辰一刀流」を立てる。武者修業の旅の後、文政5年(1822年)、日本橋に「玄武館」道場を開く。後、神田お玉ヶ池に移転し、 九段の「錬兵館」、京橋の「士学館」と共に江戸の3大道場と呼ばれた。教授法が合理的かつ具体的であったため、門弟は3,600名を数えた。なお、龍馬の 師「千葉定吉」は周作の弟で、桶町に道場を構え、「桶町千葉」と言われた。

 

三浦休太郎の墓

三浦休太郎の墓(妙行寺)

文政12年(1829年)伊予西条藩に生まれる。江戸に出て安井息軒や昌平校に学んだ後紀州藩に転籍した。慶応3年4月の「いろは丸」事件に際し、紀州藩 代表の一人として土佐藩側と交渉をしたが、「万国公法」を楯にした龍馬等によって8万3000両もの賠償支払いを行う。これに激怒した三浦が新撰組をそそ のかして龍馬暗殺を指揮したとして、慶応3年12月に海援隊・陸援隊の浪士達40名に襲われるが、新撰組に守られ軽傷で済んだ。維新後は一時期禁固刑に処 されていたが、貴族院議員、東京府知事、宮中顧問官などを歴任した。明治43年(1910年)死去。82歳。

平成12年5月28日開催!東京龍馬会 第27回:史跡探訪「駒込御成街道を歩く」

高林寺(緒方洪庵の墓、織田家の墓)⇒養源寺(安井息軒の墓、稲葉正勝の墓)⇒あさ香社跡(案内板のみ)⇒吉祥寺榎本武揚の墓、赤松大三郎の墓、二宮金次郎の墓)⇒六義園(旧柳沢邸庭園)⇒古河庭園(旧陸奥宗光邸庭園)⇒西ヶ原一里塚(都内唯一の原形保存一里塚)⇒飛鳥公園(渋沢庭園・渋沢資料館)

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緒方洪庵の墓(高林寺)

緒方洪庵は、備中足守の藩士の子に産まれました。大阪や江戸、長崎で医学・蘭学を学び、天保9年大阪で適々斎塾(適塾)を開業。大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉、大鳥圭介などを世にだしました。文久3年に喀血して亡くなりました。

 

二宮金次郎の墓

二宮金次郎の墓(吉祥寺)

1787年~1856年。尊徳。酒匂川の洪水で家財を失い一家離散。その後伯父に引き取られ仕事の余暇に勉学に励んだ姿が、有名な銅像になっています(写 真の右側)。藩家老に仕え、家政の改革や分家の領土荒廃を復興しました。また豊かな農業知識と合理的思考で関東各地の村を救済し、自力更生に努めました。 老中・水野忠邦に見出され、幕府から日光神領90ヵ村の復興開発の依頼を受けましたが事半ばで病死。

 

榎本武揚の墓

榎本武揚の墓(吉祥寺)

1836年~1908年。昌平学、長崎海軍伝習所卒業後、築地海軍操練所教授、オランダ留学を経験しました。戊辰戦争では、開陽丸を含む艦隊を率いて戦い ましたが、暴風雨で座礁するなど不運に見舞われました。函館五稜郭で最後まで抗戦しましたが、明治2年5月に降伏。黒田清隆の助命嘆願後、明治34年には 「痩我慢の説」を時事新聞に発表しています。

 

六義園

六義園

ここは徳川綱吉の時世に御側用人として権勢を誇った柳沢吉保の下屋敷でした。京都の桂離宮庭園の様式を取り入れた回遊式築産泉水庭園で、元禄期の代表的な 江戸大名庭園です。池の東側には六義館と呼ばれた下屋敷があり、柳沢吉保は56歳の生涯をここで閉じました。その後子孫が幕末まで所有していましたが、明 治11年岩崎弥太郎が買収し一時別邸として使用、岩崎家3代目・久弥が昭和13年に東京市に寄付しました。

 

旧古河邸庭園跡

旧古河邸庭園跡

陸奥宗光の邸宅跡。陸奥は新政府で外務大臣、農・商務大臣として活躍しました。その後、元小野組番頭で鉱山王・古河一兵衛が譲り受けてのり古河邸となりま した。この庭園の特徴は武蔵野台地の起伏を生かし、台地上に洋館と様式庭園を、低地に日本式庭園を配置したことです。ルネサンス風の洋館と様式庭園は鹿鳴 館を設計したコンドルの手によるものです。

 

西ヶ原一里塚

西ヶ原一里塚

西ヶ原一里塚は御成り街道二番目の一里塚です(一番目は本郷追分)。江戸幕府は五街道脇に、一里(約4km)ごとに榎を植え左右に一里塚を作りましたが、 元禄以降はあまり手入れがされてなかったようです。都内には18ヶ所の一里塚があったといわれていますが、現在完全な形で元の位置に保存されているのは、 ここだけです。

 

渋沢庭園

渋沢庭園(飛鳥山公園)

本郷台地の北端部分にあたる飛鳥山にあります。渋沢栄一は明治34年頃から晩年まで飛鳥山の邸宅に住んでいました。邸宅跡は資料館として公開されてきましたが、近年飛鳥山公園整備事業の一環として渋沢資料館が新たに作られました。